シタール界の巨匠ニキル・バナルジーと師アラウッディン・カーン
ちょっと不思議なインド音楽界裏話 後藤よみ 包PAO・14 SPRING・1989
     
     
巨匠ニキル・バナルジーはこう語ったのだった
 
「私は弟子をとるのは好きじゃない」と言明していたのは、故ニキル・バナルジー。
 
彼はこう語る。 「はっきり言って、弟子にしたいような人間がひとりもいないからさ。 才能のある若い人がまったくいないとは言わない。しかし、せっかく才能が あっても、ほんの少し習っただけで、金や名声に走ってしまい、 インド音楽を深くきわめようとはしない。私たちが師に習っていた頃は、 とにかく最初に音楽、そして音楽だけがあった。しかし、 今じゃそんな雰囲気はどこにもない。」
 
ニキル・バナルジーが当代随一のシタール奏者であった、と言っても 反論する人はあまりいないだろう。ラビィ・シャンカルと並んで 世界的に名を知られた存在だったが、ラビィ・シャンカルのように西洋ずれ することなく、純粋なインド古典音楽を演奏し続けた巨匠である。
 
日本でも、インド音楽の「通」の間ではけっこう人気があったんじゃないかな? ラビィ・シャンカルの底の浅さに気がついて、しだいにニキル・バナルジーに 魅かれていくというパターンをたどった人も、少なくないんじゃないだろうか。 惜しくも1986年1月に心臓発作で急逝したが、そのしばらく前に 雑誌のインタビューに答えて、自分の経てきたインド音楽修行や インド音楽の現状について率直な意見を述べている。 たとえば、
 
Q インド音楽と、ジャズやロックなどの他のジャンルの音楽を融合する試みについて、 どう思いますか?
 
ニキル:はっきり言って、嫌いだね。根本が違うものをくっつけてみたって、 調和するわけがない。
 
Q ラビィ・シャンカルは、オーケストラといっしょにシタールを弾いたりしていますが。
 
ニキル:ノー・コメント! なにも言いたくない。 しかし、彼がユーディ・メニューインとやった「イースト・ミーツ・ウエスト」は、 もちろん大嫌いにきまってるだろ。 メニューインは、西洋音楽ではたしかに巨匠にちがいない。 しかし、それとこれとは話が別だ。 なんでも混ぜこぜにすればいいという考え方は、まちがっている。 そういうことは、余興だけにしてほしいね。
 
とまあ、こんなぐあいだ。
 
それはともかく、このインタビューでとくに興味深いのは、彼が、 師アラウッディン・カーンの教授法を、いろいろ公開していることだ。 といっても、ピンとこない人もいるかもしれない。 アラウッディン・カーンがどんなに偉大な人物だったかを 説明しておかなくっちゃね。 てっとり早くいえば、現在世界的に活躍しているインド音楽奏者の ほとんどが、アラウッディン・カーンの弟子または孫弟子なのである。 (ひ孫弟子の方は日本にも何人かいらっしゃるようです) 直弟子の代表格は、シタール奏者のラビィ・シャンカル、ニキル・バナルジー。 サロード奏者のアリ・アクバル・カーン。孫弟子には、バンスリ(インドの横笛) 奏者のハリプラサド・チョウラシアにベハラ(インドのバイオリン)奏者の シシルコナダル・チョウドリがいる。 まだまだいるけど、名前を言ってもわからないと思うので、省略。 もちろん本人も凄まじい演奏家だった。本業はサロード奏者だったが、 ほとんどあらゆる楽器をこなしたという。
 
 
師との出会い
 
ニキル・バナルジーは、1931年カルカッタ生まれ。 カースト的にはバラモンの家系であったが、祖父と父親が アマチュアのシタール奏者であったので、毎日練習を聞かされて いるうちに、自分でも弾いてみたくなったのだそうだ。 父親がシタールを弾きはじめると、いつもそばにいって 耳を傾けていた。 5歳ぐらいのときのこと、父親がそんな息子に「他の子供たちは みんな外で遊んでいるのに、なぜおまえだけ黙ってそんなところで じっとしているんだい?」と聞いた。 ニキルが「シタールを習いたい」と言うと、 父親はおもちゃがわりに子供用の小さなシタールを買って与え、 やがて体系的に教えるようになる。
 
9歳のときには早くも全ベンガル州シタール・コンテストで優勝し、 ラジオ局の専属シタール奏者となり、また、カルカッタ周辺で コンサート活動もおこなう。 当時最高の器楽奏者であったアラウッディン・カーンとも、 演奏会の場で顔を合わせることとなる。しかし、相手はあまりにもおそれおおく、 遠くから仰ぎ見るだけだったという。
 
アラウッディン・カーンはその頃、マイソールという藩大国の おかかえ宮廷楽士であったが、年に3、4回カルカッタにも来て、 音楽祭などで演奏していた。 そのたびにニキルは、演奏を聞きにいくばかりか、 毎日(「毎日のように」ではなく、「本当に毎日」だったと、本人は強調している) アラウッディン・カーンが泊まっているホテルに訪ねていった。 といっても、超有名人である。そのまわりはいつも関係者や音楽家や ファンがとりまいていて、誰もそんな少年が来ていることにも気がつかない。 彼は、こっそりとそばに行っては周囲の会話に聞き耳をたて、 そして帰ってくるだけだった。 彼は、14〜15歳になっていた。ある日、アラウッディン・カーンは、 ニキルを呼んで、言った。「君のことは、気がついていたよ。 毎日やって来て、みんなが帰っていくと君も帰っていく。 君はなぜここに来るんだ?何のために?」 そのとたん、ニキルは、思わず叫び声をあげ、足元にひれふして、こう口走っていた。 「どうか弟子にしてください。弟子にしてくれなければ自殺します! あなたの音楽以外には、どんな音楽も聞きたくないです!」 ところが、アラウッディン・カーンは、冷酷非常にも、彼を突き飛ばして言った。 「邪魔をしないでくれ。 わしは弟子なんか、とりたくない」
 
ニキルは「ラビィ・シャンカルやアリ・アクバルには 教えたではありませんか!」とくいさがったが、アラウッディンは 「これまでは教えてきたが、もう70歳になった今、体力も暇も 残されていない。わしをそっとしておいてくれ」 と、けんもほろろである。 それでも「弟子にしてくれなければ帰らない」と泣き叫ぶと、 アラウッディン・カーンは、彼を足で蹴とばしさえした。 しかし、せめて自分の演奏を聞いてみてくれという願いは、聞き入れられた。 「次のラジオの放送日を手紙で知らせてくるように」 ということになった。 手紙を出してしばらくして、アラウッディン・カーンからの返事が届いた。 いわく。 「君の演奏を聞いた。くだらない! 絶望的だ! 最初から最後まで全部まちがっている。ひとつもあっていない。 ラーガがちがう。なにもかもちがう。 なにもわかっていない。腕輪を頭にかぶり、ヘアピンを 足につけているようなものだ!…」
 
だが、手紙の最後には、こう付け足されていた。 「しかし、君には隠れた才能があるようだ。それを無駄にするのは惜しい。 だから、来てもよろしい」 ニキル・バナルジーは翌日マイソールに発った。
 
 
弟子入りはしたけれど
 
師アラウッディン・カーンは言った。 「音楽以外のことはなにも考えてはいけない。 少なくとも一日に14時間は練習しなさい」 最初に教えられた練習曲は、ニキルに悲鳴をあげさせた。 それまでやってきたスタイルとはまったくちがう。 聞いたことも、想像したこともないようなものだった。 師は言った。 「君にはこれが適している。君はこのやり方でやるべきだ。 これが、君の心が求めているものなんだ」 ニキルが「できっこない」とさじを投げかけると、師は冷たく言った。 「それなら今すぐカルカッタに帰りなさい」
 
師は、難しい試練を与えて試しているのでも、気まぐれで 行き当たりばったりに教えているのでもなかった。 弟子ニキルの素質を鋭く見抜いて、そういう教え方を選んだのである。 といっても、少年ニキルには、そこまではわからない。 やっと師の意図がわかるようになったのは、何年も後のことだった。 自分に対する教え方が、兄弟子のラビィ・シャンカルに対するのと まったく異なることにも、驚かされた。 同じラーガでも、表現法がぜんぜんちがう。師は言った。 「君とラビィ・シャンカルは人間が違うのだから、演奏する音楽が 違うのは、あたりまえだ」 彼は、弟子の素質のちがいを鋭く見抜いていたのである。
 
弟子入りしてからしばらくの間は、他の音楽を聞くことも 止められた。そして、人前で演奏することも、いっさい禁止された。 それは、不純な要素が入りこまないようにしようという 配慮であったようだ。 練習は午前4時に始まり、食事と沐浴のときだけをのぞいて、 午後11時まで続けられた。指が切れて血が吹き出すことも しょっちゅうだったが、それでも師は容赦することはない。 おもしろいことに、アラウッディン・カーンは ほとんどすべての楽器を演奏したにもかかわらず、 なぜかはわからないが、その唯一といってもいい例外が、シタールだった。 それでは、いったいどのようにしてシタールを教えるのか?
 
教え方は主に歌によった。つまり、師がラーガの旋律を口ずさみ、 それを弟子がシタールで模倣するというやり方である。 当然のことながら、楽器の性質上、歌の旋律を微妙なところまで 性格に再現するには、難しい。 しかし、そんな言い訳は許されない。 「いったいどう弾けばいいのか?」と問うと、師は答える。 「自分のやり方を発見しなさい。自分の頭があるのだから、いちいち聞くな!」 一見無責任のようだが、これも教授法の一環なのである。というのは、 最終的には即興で演奏することをめざすインド古典音楽では、 「自分のやり方を発見する」 ことが、どうしても必要となってくるのだ。
 
 
  アーラープの練習をしてはいけません!
 
いちおう、インド音楽にあまりなじみがない人のために説明しておくと、 通常シタールの演奏では、最初に「アーラープ」という、 伴奏なしリズムなしでラーガの旋律だけを聞かせる部分があり、 その後にリズムが入り、 そしてタブラの演奏が入る部分が続く。 問題はこの「アーラープ」である。
 
余談だが、このアーラープ、リズムなしで、ボワーンボワーンという感じで えんえんとやっている(と慣れない日本人の耳には聞こえる)ので、 音楽ではなくてチューニングだと思う人がときどきいるようだ。 「インド音楽って、チューニングにえらく神経を使うのね! さすが繊細な音楽」とか「いったい、いつ始まるんですか?」とかいう人がいて、 私もその気持ちがよくわかるだけに、どう答えていいのかわからなかったりする。 インドのコンサートで、私の隣の席で見ていたある日本人女性は、 終わってから、「素晴らしい演奏だった。チューニングからしてすでに音楽に なっていると思ったぐらい! 」と語った。(実に鋭い感性だと思う) 脱線ついでに、「通」のアーラープの聞き方も紹介しておこう。 日本人では数少ない本格的シタール奏者として知られるT嬢は、 インドでコンサートに行くと、私が常に目をばっちし開けて 周囲の観客の様子を観察しているのとは対照的に、アーラープのあいだは だいたい気持ちよさそうに寝ている。そして、アーラープが終わると、 じわりじわりと目を覚まし、あくびなどしながらこう言うのだった。 「良い演奏だった。よく眠れた」
 
大幅に脱線してしまった。 えーと、いったい何の話だったかな? そうそう… 師アラウッディン・カーンはニキルにこう言った。 「アーラープは練習するな。アーラープは今の君には無理だ。 40歳くらいになって、心が落ちついて本当に安らかな気持ちを 維持できるようになってからでなければ、アーラープはできない。 アーラープを奏するとは、すべての音を心に感じることなんだ。 すべての音を! そうなれるまでに時間がかかるのは当然のことだ」 実際、アーラープを教えられたのは、最後の時期になってからだった。 最初は音階の練習、さまざまなリズム。それが20年間続く。 そしてさまざまなガット(ラーガにのっとってあらかじめ作曲された旋律)、 さまざまな曲が演奏できるようになり、最後にやっとアーラープが 教えてもらえるのである。
あるときニキルは、あまりにも疲れ果て、自分の部屋で、 戸を閉めて、ほんの短いアーラープを弾いていた。 すると突然ドアが荒々しく開けられ、師が飛び込んできて、叫んだ。 「今すぐ荷物をまとめてカルカッタへ帰れ! もうおまえには教えたくない! 」
 
 
アラウッディン・カーンこそは、真の師(グル)であったのだ
 
なんとも恐るべき厳しさである。一度口ずさんで教えた旋律を 二度、三度と繰り返すことはしない。 「もう一度やってください」などと言おうものなら、 たちまち蹴とばされる。 この厳しさはいかなる弟子も見逃しはしなかった。 アラウッディン・カーンは、マイソール藩王国の国王にも 音楽を手ほどきしていたのだが、その国王にすら、怒って タブラ調律用のハンマーを投げつけたこともあるという。 しかし、その厳しさには、必然性がある。
 
「彼こそは、真の師(グル)だった」 とニキル・バナルジーは語る。 「彼は自分にできないことを弟子に要求したことはなかった。 かれが“一日に16時間練習せよ”と言うとき、それは、彼自身が 16時間練習し、その結果どうなるかも熟知した上で言っているのだった。 弟子の性格を見抜き、最後まで責任をもって指導していけるだけの 自信と裏付けがなくては、真の師(グル)とはなれない。 そのような師(グル)を得ることは、実に貴重なことというほかない」
 
ニキル・バナルジーのみならず、数多くの名演奏家を育てた アラウッディン・カーンは、まさに、真の師(グル)であったといえよう。 しかし、彼の亡き後、その跡を継ぐような優れた師(グル)は現れていない。 アリ・アクバル・カーンは演奏家としては超天才的と評されるが、 弟子を育てるという点では、成功していないといわれる。 そして、ニキル・バナルジー自身は、生涯師となることを拒否した。 今日でこそ、シタールがインド音楽の代名詞であるかのような 印象があるが、実は、アラウッディン・カーンの弟子たちが 活躍するようになる以前は、シタールなど声楽の付録程度にしか思われておらず、 コンサートで演奏される機会もさほど多くなかった。 言いかえれば、シタールが中心となるインド古典音楽は、 アラウッディン・カーンがひとりで築きあげたようなものである。 とすれば、ニキル・バナルジーが亡くなり、彼の弟子たちの時代が終わりつつある今・・・
 
インド音楽は、これからどうなっていくのであろうか?